当記事はアフェリエイトなどの目的で書いたのではないことを最初に伝えておく(ただしネタバレあります)。過去に一度『ノルウェイの森』を読んだ人を想定している。

私の手元にある村上春樹の『ノルウェイの森(上)(下)』2冊。1997年12月5日 第50刷発行。今から約25年前、たまたま東京で仕事をしていた時、青山の書店で購入した。この『ノルウェイの森』を久しぶりに本棚から取り出し、埃を払って手に取って読んでみるとあっという間に読み終えてしまった。しかも昔とは違う新たな感覚で。今思うと当時はこの物語の養分を十分に吸い取ることができていなかった。春樹さんがギリシャ・ローマで書いた後、30年以上近くも経過したとは思えない。一度読んで本棚に眠っているだけではもったいないので、レイコさんの弾いた曲も含めその魅力を伝えたい。
目次
第1章(プロローグ)

久しぶりに1ページ目を開いた時、このフォントにインパクトを受けた。哀しい雰囲気を醸し出すなんとも言えない雰囲気を持った絶妙のフォント。「10月の草原の風景」がこの作品の心象風景になる。
第2章(1968年5月/僕と直子)
直子と「僕」が歩いた道をGoogleMapでつなげると以下のようになる。四ツ谷駅で降り、市ヶ谷に向けて歩き、飯田橋で右に折れ、神保町・御茶ノ水・本郷を経て駒込へ。徒歩1時間56分、9.2km。

第3章(1968年5月~1969年7月/僕と直子)
穏やかに季節が移り行き、「僕」と直子のぎこちない雰囲気が徐々にほぐれて、距離感も徐々に縮まっていく。そのあたりの心の機微が細やかに描かれている。ただしその背後には黒いものが渦巻いている。直子の部屋のシーンは、ビートルズの『ノルウェイの森』が持つ世界観ととシンクロしたような奇妙な感覚があった。
第4章(1969年9月/僕と緑)
緑の登場によって、物語に鮮やかな軽やかな彩りが加えられる。春樹さんの作品で特徴的なのは会話のテンポのよさ。流れるようなユーモアを含んだ世界観。今まで直子と「僕」のパートで「重たい」後に、緑のパートが始まるとその違いがより際立って感じられる。直子が「月」とすると緑は「太陽」。
私が好きなのは、日曜日に緑の「小林書店」の2階で緑の作ったお昼ごはんを食べに行く場面。緑の家に入っていくときの描画が白眉だ。
家の中はぼんやりと暗かった。土間から上がったところは簡単な応接室のようになっていて、ソファ・セットが置いてあった。それほど広くはない部屋で、窓からは一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光がさしこんでいた。
『ノルウェイの森(上)』 村上春樹著
お昼ご飯を食べた後、緑がギターを弾きながら歌うシーンもよい。彼女が歌った『レモン・ツリー』、実際に聴いてみたが悪くない。ピーター・ポール&マリー。レコードジャケットの三人の表情がよい。左右のスピーカーから流れてくる男性ボーカルの声も心地いい。緑の雰囲気にとてもよく合っている。気に入ったのでこのページを開き、毎日のように聴いている。
『レモン・ツリー』の以下の歌詞にもユーモアを感じる。
Lemon tree, very pretty, and the lemon flower is sweet.
Lemon Tree ( Peter, Paul and Mary ) 1962年4月
But the fruit of the poor lemon is impossible to eat.
『パフ』も毎日のように聴いている。
第5章・第6章(1969年10月/僕と直子とレイコさん)
ここで登場するレイコさんもこの物語に欠かすことはできない。この人がいなければ物語はもっと陰惨な展開になっていたかもしれない。
春樹さんはこの小説の中でも第3章と第6章の直子と「僕」を、すごく丁寧に描いている。なぜならこの小説の根底を流れる不安定さや死の匂いは、二人の行動を丁寧にトレースしないと理解できないし、春樹さんが言う「個人的な小説である」にもつながっている。この物語を最初から順に読み進めていくと、この第3章と第6章のインパクトが大きいため、この後登場する緑に対してどこかでブレーキがかかってしまう。読者としては春樹さんの言う「100%の恋愛小説」にどっぷり浸かりたいのだが、直子が気になってしまう。
第7章・第8章(1969年10月/僕と緑)
緑が頻繁に姿を現さなくなる理由が明らかに。あと、新たに発見したのは「僕」の意外な優しさ。緑に対して「2時間ばかり一人でそのへん散歩してきなよ」と19歳の男性が言えることに驚いた。今で言うワンオペのママに対して、そのように言える夫はどれくらいいるのだろうか。
「僕」の優しさといえば、第3章で直子に突撃隊の話をするとき「正直言って彼を笑い話のたねにするのはあまり気持ちの良いものではなかった」のことばからも窺える。
第9章(1969年11月/僕と緑)
生き生きした緑パート。
第10章(1969年12月~1970年6月/僕と直子とレイコさんと緑)
2回めの京都訪問(12月)の描写があまりにもあっさりと描かれていて驚いた。1回めの10月と同じ2泊3日にもかかわらず。あえてこの章を短くすることで第6章とは異なる状況になっていることを否が応でも感じる。
第11章(1970年8月~10月/僕とレイコさん)
当時、この章の冒頭の書き出しに驚愕した。心がその出来事に追いついていかない。
レイコさんが弾くギター。ほとんど聴いたことがない曲だった。直子が好きだった『ディア・ハート』ってこんな曲だったんだ。
フール・オン・ザ・ヒル(3:29)
六十四になったら(2:38)
レイコさんは弾いて弾いて弾きまくる。
ラヴェルの『死せる王女のためのパヴァーヌ』、ドビッシーの『月の光』、『クロース・トゥ・ユー』、『雨に濡れても』、『ウォーク・オン・バイ』、『ウェディングベル・ブルーズ』、ロジャース=ハート、ガーシェイン、ボブ・デュラン、レイ・チャールズ、キャロル・キング、ビーチボーイズ、スティービー・ワンダー、『上を向いて歩こう』、『ブルー・ベルベット』、『エリナ・リグビー』。
読み終えて
この小説を読み返そうと思ったきっかけは、Amazon Prime で『ノルウェイの森』を観た後、2時間強の映画にも関わらず小説の物語の多くが端折られていたため。
私がこの小説で最も好きなのは、登場人物がありのまま・正直であろうとする姿である。性的な描写も多いが、春樹さん曰く、本当は恥ずかしいから書きたくなかったが書かざるを得なかった、という。春樹さんは、登場人物をもう一人の自分(そうであったかもしれない自分)として重ね合わせ、彼ら、彼女らが感じたであろうことを丁寧に真摯に描こうとしたと思う。そうせざるを得なかった理由は、亡くなった友人に対する礼儀のようなものなのかもしれない。
このように書いていると直子の言う「まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ」の感覚がよくわかる。書いてしまうと自分の考えていることは他にもっとあるのでは?という考えがよぎり、だんだん自分の考えが何なのか自信がなくなってくる。
今回想定の検索ワード
”ノルウェイの森 レイコさん”